凛太郎は、意識を失って公園の地面に倒れこんだ水内の手からナイフを奪うと、折り畳み式の刃をパチンと柄の中にしまって、「ポイッ」とつまらなさそうに遠くに投げ捨てた(良い子は真似しちゃいけません)。
「これにて、一件落着…」
とは、いかなかった。
ドロリ、と、水口の口から黒い液体のようなものが流れてくる。あとからあとから湧いてくるその黒い液体は、意志を持っているかのように動き、ある一つの形を成そうとしていた。若い男だ。が、おかしい。それ以上にどこか違和感がある。よく見ると、頭から、2本の鋭い角が生えているではないか。
「…鬼?」
千沙都の脳内パニック経験値が、またしても更新された。男の鬼は水内の体からやや離れたところで完全な姿を形成すると、口を開いてガラの悪い台詞を吐いた。
「そこのヒョーロク玉。お前、秩父でレミッキと一緒にいたヤツだな。龍神憑きだったのか」
「口の利き方を知らん奴じゃな。おぬし… 虎熊童子《とらくまどうじ》か」
この鬼は、ちちぶ子ども未来園にレミッキを襲撃したものの、神獣のアロンとユマとの戦いを避けて逃げた鬼だった。
「俺を知ってんのかい。どこの龍だ、てめぇ」
「鬼のくせに儂を知らんのか。さては下っ端じゃな。お犬様を前にして逃げるくらいじゃもんなぁ」
「あんまり、嘗めた口叩くなよ」
虎熊童子と呼ばれた鬼の姿が突然消えた。かと思うと次の瞬間、いきなり九頭龍凛太郎の目の前に瞬間移動してきた鬼は、大きく振り上げた足でかかと落としをしてきた。が、これを難なく躱す九頭龍。虎熊童子はすかさず左の拳をボクシングのジャブのように突き出すが、これも涼しい顔の凛太郎は人間の手のままバシッと掌で受け止める。次の瞬間、龍神形態になった反対側の手が鬼の顔面をとらえ、鬼の顔面は苦痛にゆがむ。相当、戦力には差があるように見える。
「拳闘勝負か?望むところじゃ」
「…クソが!」
虎熊は、肉弾戦では九頭龍に勝てないと踏んだのか、一旦勢いよく後ろに飛びのき、距離を取った。片腕と両足をついて着地する。勢いのあまり、ザアッと着地地点からさらに後ろに滑ってゆく。
体勢を立て直して立ち上がった虎熊は、おもむろに懐から刃物を取り出した。その小さな刃物は変形しはじめたかと思うと、見る見るうちに巨大な鉄の金棒になった。ちちぶ子ども未来園に襲来したときに担いでいた、あの金棒だ。虎熊はその金棒を手に、助走をつけて凛太郎に突進しながら、十分な殺意を込めて、凛太郎の顔面めがけて金棒を振り下ろした。「ラァッ!!」
「おっと」
九頭龍凛太郎は金棒の一撃をよけ、地面に当たった金棒の一撃で公園の地面は大きく割れる。すかさず虎熊は横なぎの追撃を放つ。凛太郎はこれも大きく躱して距離をとった。
「おうおう、物騒じゃの。宿主《やどぬし》の人間と同じような手に頼るんじゃな」
虎熊は助走をつけて走り、数メートルは飛びあがった。金棒を大きく上段に振り上げ、そのまま振り下ろす。
「死ねえぇーー!!」
対する九頭龍凛太郎は。
「先に武器に頼ったのはそっちじゃからな。文句言うでないぞ」
そう言うと、襲いかかってきた虎熊の体を、《《何かで》》切りつけた。何を使ったのか、早すぎて千沙都の目ではとらえることができなかった。
金棒を振り下ろした虎熊と、それに切りかかった凛太郎が交錯した。虎熊は自分の手に重みがなくなったのに気づき、ふと見ると金棒が斜めの切り口で真っ二つに切られている。一瞬ののち、ズシリと音を立てて地面に切られた金棒の先の方がめり込む。「…このクソッたれがぁー!」
さらに一拍置いて、金棒の切り口と平行に切り取られた肩から上の虎熊の体が、ズルリと滑り落ちた。その体は、黒い霧のように空中に消えていった。
「根の国でおとなしゅうしとれ」
凛太郎は、鬼が消えた虚空にむかって呟いた。♦
千沙都は、目の前で何が起きたのか、ほとんど分からなかった。とりあえず脅威が去ったらしいことだけは理解できた。水口の動かなくなった体を、複雑な思いで眺める。死んでしまったのだろうか。
「死んではおらん。こやつの脳の記憶だけを儂が喰った。ちょいと荒療治じゃったから、もう自分が誰かも分からんじゃろうな」
凛太郎が言う。「鬼というのは人間の負の気を喰って自分のエネルギーに変える。この人間のように大勢を苦しめる輩がおると、鬼はそやつに憑依することがある。手っ取り早く負の気が食えるからの。おぬしもこやつにひどい目に遭わされたクチじゃろ?」
「…」
千沙都は目を伏せた。「すまんかったの」
「? …どうして、あなたが謝るのですか…?」
「まぁ、儂にも責任がある問題でな」
「はぁ…」
「そろそろ気が付くぞ。他人の振りをせよ」
「えっ?」
「う~ん…」
千沙都が戸惑っているうちに、水口が意識を取り戻して起き上がろうとする。「…大丈夫ですか。飲み過ぎたんでしょう」
九頭龍凛太郎は、今までとは打って変わって、常識的な言葉遣いになった。「ご自分が誰だか、分かりますかの?」
気を抜くとところどころ言葉遣いが戻る。詰めが甘い龍神だ。「…ダメだ。何も…何も思い出せない…」
「落ち着いて。記憶が混乱してるんじゃろうと思いますですよ。財布に身分証が入っているはずです。ひとまず、そちらに書いてある住所に帰りましょうかの」
「はい…どうも、ご迷惑をおかけしました」
「大丈夫ですよ。では、お気をつけてな」
「はぁ… どうも。失礼します」
水口は千沙都の方にもチラリと目をやったが、軽く目礼をしただけだった。千沙都は一瞬びくっと怯えたが、慌てて目礼を返した。
水口は、ゆっくりと公園を出て去っていった。「ふぅ…今度こそ一件落着、ということでよいかの」
「あの…あの人の記憶が戻る可能性は…」
千沙都は心配そうに尋ねる。「まぁ、ほぼゼロじゃろうな」
「…本当ですか!」
にわかには信じられない話だが… これで自分は、とうとう過去から解放されるのか。
確かに先ほど、千沙都とそう年齢が変わらないであろうこの男は、顔から上が龍に変わった。鬼とも戦って切り伏せた。あの鬼は――たしか『虎熊童子』と呼ばれていた気がする――切られると消えてしまったが、死んだのだろうか… 脳のキャパシティを超えたことを、今日の一日であまりにもたくさん体験している。一旦、常識はすっかり忘れた方がいいのかもしれない。そんなことを考えている千沙都に、九頭龍凛太郎は問いかけた。
「さて。これからどうする?」
(つづく)
新宿のヤクザマンションに千沙都と正代が監禁される全日の金曜日、株式会社ギャラクティカのオフィス。新しくデリバリーヘルスを始めるという企業からのホームページ制作の件で、たまたま問い合わせの電話対応をしたがために案件担当になった凛太郎が、再びかかってきた電話に出ていた。「…お電話ありがとうございます。ギャラクティカの葛原です… あ、加納様。先日はありがとうございました」「葛原さん、急ですまないんだけどね。明日の土曜はおたくの会社お休みだと思うんだけど、午前中、説明しに来てくれませんか。どうしても明日しか時間がとれなくて」 どこか腑《ふ》が抜けたような声だ。「はいもちろん、お伺いしてサービスの説明をさせていただきます。どちらまで参ればよろしいでしょうか?」「新宿区〇〇-××-△△、レイヴンズマンション歌舞伎町の701号室」「弊社のオフィスからすぐ近くですね… 10時ではいかがでしょうか?」「10時ですね。じゃあお待ちしてますよ」 翌日。その住所が悪名高きヤクザマンションだとはつゆ知らず、凛太郎は営業資料を携えて701号室にやってきた。玄関のチャイムを鳴らすと出迎えたのは、やせた神経質そうな男だった。電話で何度か話した、加納という人物だ。奥にもう一人、高価そうだがガラの悪いスーツを着てガッシリとした体格の男が座っている。「いやー、すみません。休日に呼び出してしまって。すこしでも早く店を始めたくてですね… じゃ、早速ですけど、おたくにホームページ作成を頼んだとして、料金プランみたいなの、簡単に説明してくれますか?」「はい、よろしくお願いします…」そこからのプレゼンの内容は、凛太郎はよく覚えていない。自分としてはいつも通り、誠実に説明をしたつもりである。気づいたら、加納が奥のガラ悪スーツの男を呼んでいた。「竹ノ内さーん。話、まとまりそうです」奥から出てきたその竹ノ内と呼ばれる男が、カタギの人間でないことぐらいは、25歳の凛太郎にも理解できた。「…この場所を聞いてビックリしなかったかい? 店のスタートは俺に任されてるんだけど、風俗店は初めてでね。表向きはクリーンな店ってことにして、直接俺が経営に関わらないようにしないといけねえから、この加納に任せるわけだ」「はぁ…」表向きは?ということは、やはり組のシノギなのか。「この場所を聞いてビックリする
「お前、スカウトだな。ちょっとツラ貸せや」 「いや、ちょっと…何か失礼がありましたか?」「失礼だと?ボケてんじゃねーよ… お前、どこのスカウトだ?」「え…?」「所属のスカウト会社はどこだって聞いてんだよ」「…Mauve(モーヴ)です」「モーヴかよ!ちょっと事務所来いや!」千沙都が警察を呼ぼうとしていると、後ろからもう一人の人物がぎゅっと力をこめて千里の肩をつかむ。 「ハイ、変な気起こさない。 …滅多のことすると、あとでもっとずーっと面倒なことになるの分かるよね…?」 小柄でメガネをかけた、ベストを来た人物だった。坊主の大男の相棒らしい。「…」 千沙都は声が出ない。「はい、お二人さん、事務所にご案内ね」 千沙都は目の前が真っ暗になる気がした。♦ 新宿歌舞伎町のアパートには、「ヤクザマンション」と呼ばれ、反社会的勢力団体が50以上入居していると言われる大きな2棟建てのマンションが存在する(※実話です)。漆島と千沙都が連れていかれたのは、その一室だった。千沙都は奥の合皮張りのソファーに座るように小柄なメガネの男に指示され、「絶対逃げるなよ」と念を押された。 さきほどから、岩切という名らしい坊主の大男が、漆島の腹を、10秒に一度くらいの間隔で執拗に殴っている。「…そろそろ言う気になったかい?」 小柄なメガネの男が尋ねる。こちらは矢野という名前らしい。「こっちも気ぃ使ってんだぜ?顔は殴らねえように。最近は警察の見回りが厳しくてねぇ。大声なんか出されて通報されても面倒…」言っているそばから、 『このヤロー、ナメてんのかコラ!!もういっぺん言ってみろ!』と怒号が飛び交っているのが聞こえる。おそらくははす向かいか、そう遠くない部屋だ。一つの組で複数部屋を借りているのだろうか。それとも違うヤクザの組なのか。このマンションはそれほどヤクザの入居者が多いのか。そして絶えずこのように怒号が飛び交っているのだろうか。「…言ってるそばから、これだ。ここら辺の組はみんな今、スカウトを尋問してるとこだよ… で?藤島兄弟、どこよ?」「うぅ… 知りません… トップの今の居場所は、末端のスカウト《おれたち》は誰も知らないし、連絡先すら秘密なんです…」「じゃあ、連絡先を知っている先輩か誰かを呼び出してもらおうか」「勘弁してください… あとで殺される…
勇《いさむ》 千沙都《ちさと》が入社してきたその日の昼休み、ギャラクティカの給湯室で、コーヒーカップを洗いに行った凛太郎は、千沙都とバッタリ鉢合わせした。「あ、葛原さん…! えへへ。来ちゃいました」「ハハハ… すごい行動力だね、あはは」 凛太郎は頭をかきながら照れ笑いをするのが精一杯である。「私、必ず葛原さんに恩返しをするって決めましたから。こういうお仕事は初めてですけど、私、根性には自信があるんですよ!葛原さんの役に立てるように頑張りますからね」 千沙都は二の腕を曲げてつくった力こぶを、もう片方の手で軽く叩くポーズをした。…可愛い。普通の男ならイチコロだろう。「そっか、ありがと。ハハハ…」 凛太郎は、九頭龍の人格が表に出ているときは少し記憶にもやがかかったようになるので、思い出すのに精一杯だが、千沙都にギャラクティカの名刺を渡したのは覚えている。九頭龍としては千沙都から連絡を受けたら梅ケ谷に相談し、仕事を見つけさせるつもりだったのだろう。まさか千沙都がギャラクティカに直接就職してくるとは思わなかった。「…葛原さん、会社の中では普通の言葉遣いなんですね。なんかカワイイ」「いやあ、あれは… たまに勝手に出てくるキャラというか、何というか…」「?…」 凛太郎は説明に困って、冷や汗の量が増えていく一方だ。と、そのとき突然、凛太郎の背中から、よく聞き覚えのある声がした。「…2人、知り合いなの?仲良さそうだけど」「…!」 凛太郎は青い顔で振り向く。七海が給湯室の入口に立っていた。凛太郎の目には、七海の体からゴウゴウと炎が燃え盛っているように見えたが…気のせいであろうか。「七m… 阿賀川さん!」 凛太郎は、もう少しのところで『七海さん』と呼びそうになるところを、必死に言い直す。「勇《いさむ》さんよね。デザイン部の阿賀川です。よろしくね」「勇千沙都です。よろしくお願いします!」「葛原君と仲いいみたいだけど。知り合いなのかしら?」「いいえ!今日が初対面ですよ。ね、葛原さん♡」「は、はい!もちろん、今日はじめてお会いしました…」 この嘘が確実にバレることが分かっていた凛太郎は、半泣きだった。♦「ハァ~⤴!?3億円で身請けした⤴?」「わわわ、声おっきいですよ、七海さん…」その日の夜の七海のアパート。いつも仕事が終わると半自動
「さて、これからどうする?」「えっ…」「おぬしの自由じゃ。店に戻ってもよいがの… せっかく人生が一区切りついたんじゃ。新しい生き方を始めてみたらどうじゃ。 …ほれ、名刺とかいうやつを渡しておくから、困ったら連絡せい。知り合いに顔の広いの(※梅ケ谷のことである)がいるから、仕事先くらい見つけさせる」九頭龍凛太郎は「株式会社ギャラクティカ 営業部 葛原凛太郎」と書かれた名刺を渡した。「ちゃんと名乗っておらんかったの。儂はくずりゅ… ゴホン。葛原凛太郎じゃ」「…よし。では、儂はこれで失礼するとしようかの。時間をとらせてすまなかったな。今日のことは、他言無用で頼むぞ」「…はい!」 (誰にも言いません。葛原さんが仕事を抜け出してお店にいらしたことも、私を引き取ってくれたことも、私のストーカーをやっつけてくれたことも。それから…正体が龍ってことも。) 千沙都は、今日の一日で体験した盛りだくさんの人生アトラクションを一瞬のうちに脳内で整理すると、勢いよく返事をした。「ぬしは、きらら、じゃったの。達者でな」「いいえ」「うん?」「本当の名前は、千沙都っていいます。葛原さんには、一生のご恩ができました。絶対に絶対に、いつか恩返しさせてください…!」「いや、その… そんなに気合いを入れんでもよいが… まぁ、幸せに暮らせよ」 千沙都と別れたあと、九頭龍凛太郎は内心穏やかでなかった。(虎熊が出てきたということは…《《あいつら》》もどこかに居るのか。まぁた討伐せんといかんのか、気が進まんなあ。生命力だけ儂に似おってからに… いかーん、考えてたら眠くなってきてしもうた…) ふと気が付くと、九頭龍から凛太郎の人格に戻っていた。凛太郎は特に今日の記憶があいまいだったが、サカリのついた九頭龍に仕事中に自我を奪われ、会社を抜け出して風俗店に行ったことだけは分かっていた。「あ~ヤバい、やっちゃったよ… 会社に戻らなきゃ!!」 凛太郎は、どこの外回りをしていたことにしようか、必死に頭をめぐらせながら、歌舞伎町から西新宿にあるギャラクティカのオフィスに戻っていった。♦ それから数週間が経過したある日の朝。ギャラクティカでは、フレックスタイム制が導入されているが、コアタイムである10時に簡単な朝礼があり、全体への報告事項などが共有される。ふた昔ほど前は社員の気合を入
凛太郎は、意識を失って公園の地面に倒れこんだ水内の手からナイフを奪うと、折り畳み式の刃をパチンと柄の中にしまって、「ポイッ」とつまらなさそうに遠くに投げ捨てた(良い子は真似しちゃいけません)。「これにて、一件落着…」とは、いかなかった。ドロリ、と、水口の口から黒い液体のようなものが流れてくる。あとからあとから湧いてくるその黒い液体は、意志を持っているかのように動き、ある一つの形を成そうとしていた。若い男だ。が、おかしい。それ以上にどこか違和感がある。よく見ると、頭から、2本の鋭い角が生えているではないか。「…鬼?」 千沙都の脳内パニック経験値が、またしても更新された。男の鬼は水内の体からやや離れたところで完全な姿を形成すると、口を開いてガラの悪い台詞を吐いた。「そこのヒョーロク玉。お前、秩父でレミッキと一緒にいたヤツだな。龍神憑きだったのか」「口の利き方を知らん奴じゃな。おぬし… 虎熊童子《とらくまどうじ》か」この鬼は、ちちぶ子ども未来園にレミッキを襲撃したものの、神獣のアロンとユマとの戦いを避けて逃げた鬼だった。「俺を知ってんのかい。どこの龍だ、てめぇ」「鬼のくせに儂を知らんのか。さては下っ端じゃな。お犬様を前にして逃げるくらいじゃもんなぁ」「あんまり、嘗めた口叩くなよ」虎熊童子と呼ばれた鬼の姿が突然消えた。かと思うと次の瞬間、いきなり九頭龍凛太郎の目の前に瞬間移動してきた鬼は、大きく振り上げた足でかかと落としをしてきた。が、これを難なく躱す九頭龍。虎熊童子はすかさず左の拳をボクシングのジャブのように突き出すが、これも涼しい顔の凛太郎は人間の手のままバシッと掌で受け止める。次の瞬間、龍神形態になった反対側の手が鬼の顔面をとらえ、鬼の顔面は苦痛にゆがむ。相当、戦力には差があるように見える。「拳闘勝負か?望むところじゃ」「…クソが!」虎熊は、肉弾戦では九頭龍に勝てないと踏んだのか、一旦勢いよく後ろに飛びのき、距離を取った。片腕と両足をついて着地する。勢いのあまり、ザアッと着地地点からさらに後ろに滑ってゆく。 体勢を立て直して立ち上がった虎熊は、おもむろに懐から刃物を取り出した。その小さな刃物は変形しはじめたかと思うと、見る見るうちに巨大な鉄の金棒になった。ちちぶ子ども未来園に襲来したときに担いでいた、あの金棒だ。虎熊はその金棒を
「ここにくれば女子《おなご》が抱けると聞いたんじゃが、間違いないか?遊郭も、随分と洋風になったもんじゃの」 若い華奢な男だが、見た目に反して老人のような言葉遣いで、その客は話した。「うふふ、面白いお客様ですね。きららと申します。今日はご指名ありがとうございます。お部屋までご案内しますね」2人は階段を上がって、豪華な内装の個室に到着する。「今日は、お仕事中にいらしたのですか?スーツ、似合ってますね。」「仕事が終わってから行くと、家にうるさいのがいるでの。外回りということにして、会社を抜けさせてもらった」「あ、ご結婚されてるんですか。」「夫婦ではないぞ。一緒の部屋で暮らしておるだけじゃ」「同棲されてるんですか。お客様みたいな格好いい人の彼女なら、さぞかしきれいな人なんでしょうね」「フフン、まあ、あれは上《じょう》モノじゃなぁ」「うふふ、そんな素敵な彼女さんがいるのに、遊びに来て下さって、ありがとうございます」「礼には及ばんぞ。気が変わったからのう」「え…?」「おぬし、なにか訳アリのようじゃの。儂の目は誤魔化せん。この仕事自体が嫌いというわけではなさそうじゃが」「え、えっと…」「隠しても無駄じゃぞ。人間の心を読むことくらい容易《たやす》いことよ… 少しばかり、急いだほうがよいのじゃろ?」千沙都は限界であった。必死にこらえていた涙が、意志と関係なくボロボロと零《こぼ》れ落ちる。「あれ、泣かせてしもうた」「…す…すみません…」「よいよい、もう今日おぬしを抱くのはやめにする」「いえ、大丈夫ですから… ごめんなさい…」「ウチのに知れると、あとで何を言われるか分からんしな」 (では、そもそもなぜこんなところに来たのであろうか、この龍は)「よし、詳しい話はあとじゃ。とりあえず身請《みう》けしよう」「…はい?」 千沙都はキョトンとしている。ミウケ?何のことだ?「いくら積めばよいかの。店の者と話せるか」 凛太郎は、勝手に部屋を出て1階のフロントに向かっていこうとした。「え?ちょっとお客様、困ります…!」♦ そこからの話は早かった。槌田店長がもともと千沙都が店を辞めることを覚悟していたからである。正直なところ、槌田は『身請けって… この客、マジか?江戸時代あたりからタイムスリップしてきたんじゃねーだろーな?いまどき店に金を払う